「自分の知らない自分」
認知行動療法の一環として始めたブログ
このウツパニブログをはじめて、早くも1か月が経った。
あまりがんばり過ぎると、パニコは自滅することが分かっているので(汗)、書ける時に書くというスタンスで、のんびり続けて行こうと思っている。
このブログは自分たちの認知行動療法の一環として書き始めたのだが、どうやら我が夫(うつ夫)も、このブログを気に入ってくれているようだ。
本日の四コマで描いたエピソードは、つい最近の出来事である。うつ夫が、ニヤニヤとスマホを見つめていると思ったら、このブログを読んでいた(笑)
そして、パニコの描いた自分の姿を見て「おもしろい」と言っていたのだ。
これが、最近我が家でよく見かける風景である。
「自分ってこんな風に見えていたんだ」
正直、このブログを書きはじめた当初は、うつ夫は嫌がるのではないかと思っていた。なぜなら、私たちのとても情けない姿や滑稽な様子を描くことになるのだから。
しかし、思いのほか、うつ夫は前向きにブログを読み、むしろ楽しみにしてくれているようだ。これには、パニコもとてもホッとしている。
そして、おもしろいなと思うのは、うつ夫が「自分ってこんな風に見えていたんだね~」と、新鮮そうにブログを見ていることだ。
やはり、パニコ目線で見るうつ夫と、うつ夫が自分で思っている自分の姿には、きっとギャップがあるのだろう。
人は、自分の外を見ることはできても、自分自身を見るのは苦手なものである。
ジョハリの窓~自分は知らないが他人は知っている自分
そう言えば、心理学でジョハリの窓というのがあるのを思い出した。
これは、自分を知るための4つの窓を示したものだ。
ジョハリの窓によれば、自分の中の「自分は知らないが他人は知っている」部分を「盲点の窓」と言うそうだ。
うつ夫にとってこのブログは、ある意味「盲点の窓」を開くきっかけになっているのかもしれない。
「盲点の窓」が開くということは、「解放の窓」、すなわち「自分も他人も知っている」部分が広がっていく。自分のことが、より解るようになっていくのだ。
他人目線と自分目線のギャップ
うつ病にまつわる様々な出来事は、当事者としては大ごとだし、必至だし、悲劇である。しかし、客観的に見れば、案外笑ってしまうような出来事の場合もある。
だから、うつ夫にとって、このブログで描かれている自分が、とても新鮮に感じるのだ。そして彼は、そのギャップを楽しんでいるらしい。
どうしても自分だけでは、自分の目線でしか見れなくなってしまい、アリ地獄にはまってしまうことだってある。そんな時、こうして他人の目を通してみることは、アリ地獄から抜け出すチャンスになるのかもしれない。
「自分のことは自分がいちばん解っている」という思い込み
しかし、今でこそ、こうして他人目線の自分を「おもしろい」と思えるようになったが、昔はそうではなかったようだ。
うつ夫に聞けば、数年前なら「自分のことは自分がいちばん解っている」と思い込んでいたため、他人の声を受け入れられずにいたと言う。
なぜ、今は他人の声を受け入れられるようになったのか、うつ夫に聞いてみたところ「…わからない。また考えておくね。」とのこと。
パニコ的には、それだけ心が柔らかくなったのかなと感じるが、またうつ夫の回答が得られたら記事にしたいと思う。
それにしても、自分で自分の全てを分かることができない人間は、本当に不思議である。人生とは、自分を知っていく歩みなのかもしれない。