「気遣い下手」
悩みの種は「気遣い」だ
私の夫(うつ夫)が、うつ病の闘病生活を卒業して、すでに5年ほどが経った。
うつ病は再発に要注意と言われるが、今のところ過度なうつ状態や発作に悩まされることなく、平穏に暮らせていることは幸いだ。
しかし、今も尚、日常のちょっとしたことの中に、うつ夫を悩ませる種が多々存在する。そのひとつが、コミュニケーションだ。
特に、四コマでも描いた通り、うつ夫は「気遣い」の在り方に悩みを抱えている。
どういう訳か、うつ夫の配慮は相手に全く気づかれないか、逆に怪訝な顔をされてしまうことが多いようだ。
「気遣い」とは、相手と通じ合って初めて成立する
パニコ的には、うつ夫は「気遣い」ができない人間ではない、と思っている。
むしろ、配慮のできる人間だと思う。10年ほど隣で見てきたからこそ言えるのだが、うつ夫は人より視野が広く、先を考えて行動するタイプなのだ。
しかし、その配慮が周りに理解されているかどうかは、別の話である(汗)「気遣い」とは、相手と通じ合って初めて成立するのだろう。
そう思うと、配慮していても理解されないうつ夫は「気遣い下手」なんだと思う(汗)
とはいえ、パニコも人のことは言えないほど「気遣い」が苦手だ。うつ夫やパニコのような内向的な人間にとって、「気遣い」はとても難しいものに感じてしまう。
そもそも「気遣い」とは、何だろうか?
どこかでこんな話を耳にしたことがある。
「気遣い」には、「向社会的気遣い」と「抑制的気遣い」の二種類があるのだと。
「向社会的気遣い」とは、相手のために何かする、といった積極的な働きかけのことだ。それに対し「抑制的気遣い」とは、相手の困るようなことはしない、といった抑制的な配慮のことである。(これはパニコ的な解釈だ)
さりげない配慮は気づかれにくい
パニコの分析によれば、うつ夫の「気遣い」は、後者の「抑制的気遣い」に属する場合がほとんどだ。
視野を広く持ち、先を考えて行動することができる彼だからこそ、誰かが困らないように、スムーズに事が運ぶように配慮しているのである。
しかし、当事者は自分の行動に100%意識が向いていることが多く、このようなさりげない配慮は気づかれにくい。
その結果、四コマのように「何この人?」という扱いになってしまうのである(泣)
「気遣い」は一方通行では不成立
さりげない配慮は、しばしば美徳と考えられることがあるが、さりげなさ過ぎて一方通行になってしまうのは、いかがなものか。
お天道様はきっと観ていてくれている!とでも言うべきなのか。
もちろん、人知れず徳のある行動をすることはとても素晴らしいことなのだが、「気遣い」ができることが求められる社会のなかで、こうした配慮が埋もれてしまうのはなんだか残念な気がする。
やはり、「気遣い」を成立させるためには、相手に伝わることが大切なのだろう。
「気遣い」のキホン:気遣いとは、コミュニケーションの一部
元ANAのCA三上ナナエさんの著書『「気遣い」のキホン』の中では、このように書かれていた。
「遣」という漢字は、「思いを伝える」「心をはたらかせる」という意味がある
この著書は、パニコのお気に入りの一冊である。「気遣い」の在り方やコミュニケーションのコツが丁寧に、しかも分かりやすく解説されている。脱コミュ障を目指すパニコの愛読書である。
この本を読んで、「気遣い」は、ただの配慮とは違うのだ気づかされた。
「気遣い」とは、コミュニケーションの一部なのだ。独りよがりのものではなく、相手有りきのものである。
気遣いを成立させるためには
内向的な人間は、行動や思いを自己処理してしまいがちだ。しかし、伝わらなければ理解されないこともある。なぜなら、人はみんな価値観や視点が異なるからだ。
だからこそ、内向的な私たちがすべきことは、伝える努力なのだろう。その結果、相手に「伝わる」ことで一方通行を防ぎ、気遣いが成立するのではないか。
つまり、「気遣い」とは「相手に配慮が伝わる」ことだと、現在の私たちは考えている。
ご意見、求む。
それにしても、冒頭で描いた四コマのシチュエーションでは、どのような「気遣い」が正解だったのか?その答えを、未だに、うつ夫は考えているようだ。
些細な悩み(正直なところどうでもいいとも思ってしまうような悩み)ではあるが、うつ夫にとっては重要なことである。
どうか読者の皆さま、もし何かいい案があれば、うつ夫にご伝授願いたい。