「理解されにくいうつ病」
うつ病は周りから理解されにくい
引き続き、まだ結婚前の、うつ夫が闘病中だった頃の話である。
当時、うつ夫とパニコは、外出の習慣づくりとして、リハビリデートを重ねていた。
前回触れたように「超スモールステップ」のお陰もあって、少しづつ行動範囲を広げることができたのだった。
しかし、その頃、別の問題にも直面していた。それが、世間の目との闘いである。
うつ病は、周りから理解されにくいのが難点だ(汗)
もちろん寝込んで動けない時もあるのだが、体調が良い時は一見普通そうに見える。
この一見普通そうに見えてしまうところが厄介で、誤解を生んでしまうことが多い。
周りからは「怠けてる」とか「自分勝手」などと思われてしまうことがよくあるのだ。
リハビリデートを重ねていた頃のうつ夫は、おそらく周りからすれば「働かないで遊んでいる人」という風に映っていただろう。
そのせいで、家族や知人とぶつかることも度々あったようだ(汗)その度にうつ夫は体調を崩してしまっていた。
「社会人は働くのが常識」という世間の目
一般論として、「社会人は働くのが常識」という考え方が社会に根付いている。
こうした世間の目は、心の病を患っている人にとって、知らず知らずプレッシャーとなってしまう。
うつ夫とパニコも、リハビリとして、人の少ない平日によく遊びに出かけていたのだが、何となく「平日に遊んでいるダメな大人」という目で周りから見られているような気がして、後ろめたさを感じてしまうこともあった。
冒頭の四コマで描いたうつ夫兄の言った「遊びに行けるなら働け」という言葉。
確かに傍から見れば、ごもっともな意見かもしれない。
それに、うつ夫兄だって、うつ夫の社会復帰を願って言っているのであって、意地悪を言っているわけではないのだ。
「遊びに行けるなら働け」
「社会人なんだからしっかりしろ」
「他のみんなも頑張っているんだ」
こうした言葉は、周りからすれば、アドバイスや励ましのつもりなのである。
しかし、これらが本人の心を深く傷つけてしまうことがある。そこには本人と周りの人の間に大きなギャップがあるのだ。
本人だってそんなことは十分わかっている。
でも、働きたくても働けないのだ。心が動かないのだ。
だからこそつらいのである(汗)
うつ病が理解されにくい理由
うつ病が「心の病」であることは多くの人が知っている。しかし、多くの人の判断基準は見た目でわかる「体力」にあるかもしれない。
心というものは外から見えないゆえに、理解されにくいのである(汗)
遊びに行ける元気があれば、働きに行けるはずだ。
一般的には自動的にそう解釈されてしまうかもしれない。
しかし、それは体力的に見た場合の話であって、問題は心にあるのだ。
ここでは、「体力」に対して心のゲージを「心力」と呼ぶことにしよう。
「体力」だけで考えれば、「遊びに行ける」=「働きに行ける」となるかもしれない。
でも、「心力」で考えると、「遊びに行く」のと「働きに行く」のは全く異なるのである。
なぜなら、集団組織のルールの中では、自分のペースを保てないからである。自分の心を尊重できないのである。
「心力」が低下してしまった人にとって、自分の心を尊重できない環境に身を置くのはとても大変なことなのだ。
うつ病は心の声を抑圧した結果?
そもそも、どうしてうつ病になるのだろうか?
これは、パニコの勝手な推測だが、きっと多くの人が自分の心の声を優先できずにいた結果なのではないだろうか。
「しなければならない」
「みんながそうしてる」
「言われたからやる」
そんな中で、自分の心の声を抑圧した結果、どんどん心の声に鈍感になっていく。
そして、処理されなかった気持ちや感情でいっぱいになった心は、上手く稼働しなくなってしまうのだ。
うつ病は、そんな抑圧され続けた心の声に、もう一度耳を傾けるチャンスなのではないだろうか。
「気の向くままに。」心の声に耳を傾ける。
闘病中は、世間の目をどうしても気にしてしまいがちだ。
でも、本当に回復するためには、世間の目を恐れず「気の向くままに」過ごしてみることがいちばんだ。
「これならやれそうかも。」
そんな心の声をできるだけ尊重し従ってみたら、少しずつ心が動き出すはずだ。
それまで、ずっと抑圧され無視され続けた心の声に、もう一度耳を傾けてみる。
そんな風に「気の向くまま」に過ごすことは、心の機能を回復させるために大切な時間なのではないだろうか。
そして、周りの人たちも一般論や世間体に縛られず、本人が「気の向くままに」過ごせるように見守ってあげてほしいものだと、心から思うのである。