本日の話は、自分の経験からパニコがふと思ったことについてである。
それは、「人に合わせる」という行為は、ある意味無責任では…?ということだ。
前回の記事で、パニコは以前、人に合わせることが習慣になってしまっていた、という話をした。それは、「みんなに嫌われたくない」という一種の承認欲求からだったのだが、それに加えて、人に合わせることで「安心感」を得ていたのも確かだった。
それは、自分が責任を負わなくていい という「安心感」だ。
人に合わせるということは、考えようによっては「共感性」とも捉えられる。
他人の意見を尊重すること。
その場の空気をみださないこと。
これらは、日本の社会で重視される風潮にある。
しかし、人に合わせることは、本当に共感性なのだろうか。
他人を尊重しているようで、実は、自分で決断することから逃げているとも言えるのではないだろうか。
決断するという行為には、かなりのエネルギーが必要だし、それなりの覚悟も要るものだ。だったら、人に決めてもらった方がラク…そんなズルさも、心のどこかにあるのではないだろうか。
少なくとも、以前のパニコにはそのズルさがあった。
自分では気づいていなかったが、無責任だったのだ(汗)
自分が意見を言うことで、的になったり責任を負ったりすることが恐かった。だから、人に合わせていた方がラクだったのである。
この無責任さに気づかせてくれたのは、うつ夫だった。
まだつき合っていた頃、パニコはあたかもうつ夫の意見を尊重しているようなつもりで、うつ夫に行動を合わせることが多々あった。
しかし、それは、まだ闘病中だったうつ夫にとってとても重かったようで(うつ病中は決断力がにぶるのだ(汗))、よくケンカのきっかけとなっていた。
うつ夫はパニコによくこう言っていた。
「合わせるんじゃなくて、パニコがやりたいことをやればいいんだよ。」
その頃のパニコは、自分の気持ちに鈍感すぎて、うつ夫の言っていることが良く分からなかった(汗)すっかり、人に合わせることが当たり前になってしまっていたのだ。
でも、何度もこのようなことがあって、自分の心を見つめ直し、パニコはやっと自分の愚かさに気づいたのであった。
人に合わせるということは、その人に選択権をゆだねるということ。同時にそれは、その人に責任を押し付けることになると…。
それはとても無責任なことではないか。
こうした無責任さは、社会の集団の中に多々存在しているように感じる。
人は集団に属することで安心を得る。それも、より多数派にいればいるほど安心は増す。しかし、その中で責任と覚悟を持っている人と言えば、ほんの一部だけなのだ。
「みんながそうしているから」
「誰かが決めてくれる」
こうした集団意識というのは、無責任の象徴と思えてならない。
無責任がゆえに、何かトラブルがあった時に「人のせい」にしてしまうのだ(汗)
人に合わせることが必ずしも悪いわけではないが、そこに自分の意思決定が無ければ、きっとどこかで他責の念が生まれてしまうだろう。
この 無自覚な他責 は、避けたいものだ(汗)
どんなことであっても、自分の選択と行動には、自分に責任があることを心得ておかなければならない。
自分の経験から、ふとそんなことを思ったのだった。