うつ夫がよく言われてしまうセリフ。
「あなたのために、してあげたのに!」
このセリフは、うつ夫がよく言われてしまうセリフである(汗)
これも、彼を悩ます要因の一つであり、彼自身なぜそう言われてしまうのか、ずっと疑問に思ってきた。
おそらくその理由は、彼の持つ、ほんわかとした雰囲気によるものなのだと思う。
うつ夫は、ほんわかしている上に、(前回の記事でも触れたとおり)人と少し観点が違っている。
そのため、周りの人に「わかってない人」という印象を持たれてしまう。だから、多くの人は、うつ夫にアドバイスをしたくなるのだ(汗)
しかし、うつ夫としては、アドバイスを求めていないし、答えを急いでいるわけではない。マイペースに、あれこれ考えてみることを楽しんでいるのだ。
だから、アドバイスを受け取っても、それをそのまま実行するとは限らない。(もちろん、一つの意見として、受け止めはするのだけれど…)
その結果、すれ違いが起こってしまう(汗)
アドバイスした側は、自分の行為を台無しにされたような気持ちになり、つい「あなたのために、してあげたのに!」という言葉を口にしてしまうのだった。
「あなたのために、してあげたのに!」は他人軸の心に起因する
このセリフは、パニコも、うつ夫に対して言ってしまうことがあったので、気持ちはよく解る(汗)しかし、よくよく考えてみれば、この言葉は、そもそも「他人軸の心」に起因しているのではないだろうか。
今回、うつ夫の悩みをきっかけに、このセリフに隠された心情を、パニコなりに考えてみた。
「あなたのために、してあげたのに!」
この言葉には、きっと続きがあるはずだ。
それはおそらく、「どうして受け入れてくれないの?」というニュアンスの言葉だろう。
つまり…、
このセリフは「あなたに受け入れてほしかった!」という気持ちの裏返しなのである。
相手に受け入れてほしかったのに、思うような反応が返ってこなければ、心は満たされない。その不満の現れが、「あなたのために、してあげたのに!」なのだ。
これは、正当なセリフのようでいて、実は「他人軸」ならではの「心のこじれ」である。無自覚にも、相手の見返りを求めてしまっているのだ(汗)
本来ならば、「あなたのためにした」という自分の行為と、「それを受容するかどうか」という相手の反応は、全く別物であることをわきまえておく必要がある。
にもかかわらず、他人軸の場合、相手の反応の上に、自分の行為が成り立つのである。だから、思うような反応が返ってこなければ、自分の行為が台無しになってしまうのだ。
そのような「心のこじれ」が、「あなたのために、してあげたのに!」という言葉に集約されている気がする。(言っている本人は無自覚だが…。)
しかし、このセリフは、本人にとっても、相手にとっても、何となく後味が悪い。(人間関係のこじれにもなりかねない(汗))
この、他人軸による「心のこじれ」から抜け出すためには、「自分の行為」と「相手の反応」を、切り離して考える必要があるだろう。
「相手がどんな反応だろうと、自分がやろう!と決めたことをしたまで。」
そう思うことができれば、相手に受け入れられようが、そうでなかろうが、自分の行為自体に満足できるはずだ。それが、自分軸の心の在り方なのだろう。
「人のため」は、結果的に「自分のため」!
パニコは、「あなたのために、してあげたのに!」を避けるために、一つの方法を思いついた。
それは、「あなたのため」を「自分のため」に変換することである。
人のために何かをすることは、確かに、その人のためになるかもしれない。しかし、突き詰めて考えてみれば、その先にあるのは、自分の満足なのである。
「あなたのため」に何かしたいと思うのは、「あなたの喜ぶ顔を見たい」から?
確かにそうなのだが、「あなたの喜ぶ顔を見ることが、自分の喜び」だからだ。
自分がしたことで、誰かが喜べば、自分自身もうれしいのだ!
ということは…
「人のため」は、結果的に「自分のため」なのだ!!
私たちは、道徳的に、「人のためにすることは善いこと」だと教えられてきた。
しかし、それは、単に相手のためになるからだけでなく、自分の心を満たすことに繋がるからかもしれない。
それなら、たとえ「人のため」の行為であっても、「自分のため」と思い直して行動した方が、押しつけがましくなることもないし、見返りを求めることもなくなるだろう。
そして、何より「あなたのために、してあげたのに!」と、相手を責めるようなセリフを言わなくて済む。(人間関係のこじれも防げるかもしれない!!)
「あなたのため」を「自分のため」に変換する。
たったこれだけで、心の在り方は変わり、自分軸になれるから不思議だ。
ほんの少し考え方を変えることができれば、心はスッと軽くなりスムーズになっていくのだから、自分の心を見つめ、ケアしていくことはとても重要なことだと、つくづく思うのだった。