「私は何をそんなに急いでいるのだろう?」
ふと、そんなことを思う時がある。
何か時間に追われている時は言うまでもないが、とりわけ急ぐ理由が無い時でさえ、 なぜか、心が急いでいることがある。
道を歩けば、周りの人に負けじと足を急がせ、レジに行列ができていれば、何となく苛立ちを覚える。
赤信号に引っかかれば、「なんてツイていないんだろう」とうんざりしてしまう。
でも、そんなに急ぐ必要が、一体どこにあるのだろうか(汗)
よく考えれば、ほんの数分も変わらないようなことなのに、
私たちは常に、前へ前へ、先へ先へと、気がせいているのだ。
現代人は、それだけ心が忙しく、立ち止まることが苦手な生き物なのかもしれない(汗)
もちろん、スピーディに物事をこなすことも、必要なスキルの一つではある。
しかし、常に急ぎあせってばかりいれば、心はきっと、どんどん消耗してしまうだろう。
呼吸も浅くなり、余計なものには目もくれない。
自分も含め、人や物をすべて比較や評価の目で見る。
そんな風では、いつしか心の弾力は失われ、ストレスでいっぱいになってしまう気がする(汗)
心のアンテナに触れたレジリエンスという言葉
レジリエンス。
最近、この言葉が、パニコのアンテナに引っかかり、心に響いていた。
調べてみると、「レジリエンス」は、「回復力」とか、「復元力」などと訳されるらしい。
ストレスを跳ね返す力、折れない心をつくる力としても、大変注目されているようだ。
確かに現代は、情報も多く変動の激しい時代である。
そんなストレスを受けやすいとも言える社会のなかで、上手く順応していくために、「レジリエンス」はとても重要な力なのだろう。
そして、パニコの個人的な考えだが、この「レジリエンス」は、「立ち止まる」ことと大いに関係していると思う。
そう思ったのは、自分自身の経験によるものである。
うつ夫とパニコは、20代で心の病を経験した。
それは、大変な経験ではあったが(汗)、そのお陰で、一旦「立ち止まる」時間を得ることができた。
そして、立ち止まったお陰で、「レジリエンス」を養うことができたと感じているからだ。
それまでがむしゃらにやっていた、うつ夫とパニコにとって、きっとあの頃、「立ち止まる」ことが必要だったのだろう。狂いかけた心の歯車をリセットし、回復させるために。
「立ち止まること」は「心をゆるますこと」
「立ち止まる」ということは、案外勇気が要ることでもある。
それは、それまでやっていたことを、一旦手放すということなのだ。
でも、立ち止まることで、手に入れられるものもある。
それは、「心のゆとり」だ。
立ち止まってみてはじめて、周りの景色に気づくこともある。
急いでいる時には見逃していた何かに、ふと気づくかもしれない。
そういうのって、きっと心にゆとりが生まれた証拠なのだと思う。
「立ち止まる」ことで、それまで緊張していた心が、ふっとゆるむのだ。
例えば、赤信号で立ち止まった時、どんなことを思うだろうか。
「あ~、何てツイてないんだ(怒)時間が持ったない!!」
そう、不快感に心を染めることもできるけれど、きっと今この瞬間に心を向け、あるがままを受け止めてみた方は、遥かにいい気分になるはずだ。
「あぁ、風が気持ちいいなぁ。」
「空が何て青いんだろう。」
そんな当たり前のことにふと気づき、心がふんわりゆるんでいく。
「立ち止まる」ということは、「心をゆるます」ことなのかもしれない。
そして、その「心のゆとり」こそ、レジリエンスの基なのだろう。
固くなった心のままでは、ストレスの衝撃で、心にヒビが入ってしまうかもしれない。
でも、柔らかい弾力のある心なら、きっとそのストレスを跳ね返すことができる。
心が固まってしまう前に、「立ち止まる」ことが、私たちには必要なのではないだろうか。
立ち止まって、あるがままを受け入れる。
人は何か問題が生じると、急ぎあせって解決しようとする。
でも、そうした抵抗は、変なりきみを生み、逆に事態を悪化させてしまうことだってある(汗)
波に抗いもがけば、余計に沈んでしまうように。
だからこそ、一旦立ち止まってみよう。
ほんの少しでも、立ち止まって心をゆるますことができたら、
そして、あるがままの現状を受け入れることができたら、
きっと、自然に回復しようとする力が、内から湧いてくるはずだ。
それが「レジリエンス」というものなのかな、と今のパニコは感じている。
時には、赤信号で止まるのも悪くない。
そんな時間も楽しんでしまえるくらい、柔らかな心でいたいものだ。